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フィクションです。
(※ミリしらは無関係だよ!)

彼は考えた。
生きる意味など存在しない。
ゲームなどと云う物は所詮0と1の集合でしかないのだから、これに熱中することは無意味だ、と云う文言はよく耳にする。ならば現実世界も同様だ。あらゆる物質は分子によって成り、分子は陽子と電子と中性子によって成り、これらは素粒子によって成る。このとき究極的には、全ての素粒子の絶対座標によって世界は表現可能であり、例えば、何かしらの喜怒哀楽を伴った経験であっても、それは脳の記憶に関する素粒子の位置の変化が行われたに過ぎず、人間の行動にその位置変化以上の意味を持たせることは不可能である、と彼は思う。
たとえそうだとしても、刹那的享楽が錯覚可能なのであれば、生きていても良いのかもしれない。しかし、彼にはそれが出来なかった。彼にとって生きることは苦痛でしかなく、そして生に対して未練も執着も無かった。彼は自殺について考え始める。具体的にはどうするべきか。自分の死が他人の迷惑に繋がることは本意ではない。
運行停止によるダイヤの乱れが多大な数の人間の足に影響する線路への飛び込みや、他人を巻き込む可能性がゼロでない高所からの飛び降りなどは採用に値しない。また首吊りや練炭などの自分の部屋内での自殺も、発見が遅れれば死体の腐乱に近隣住民が迷惑するであろうし、部屋の物件価値が下がれば大家が困る。自然に土に還る様な方法が望ましい。
ならば樹海での自殺はどうか。音信不通で行方不明となれば家族が捜索願を出す可能性がある。そうなれば莫大な請求が家族に対して行われ、家族が迷惑する。どうやらどれだけ人知れず死のうにも、家族の迷惑を回避することが困難である。
そもそも自殺と周囲に判断されるような自殺であってはならない。自分が自殺したという事実が家族の世間体を悪化させる。自殺をしてはならないという社会通念、つまりは恥によって自殺をすることが出来ない。
ならば事故に見せかけた自殺であれば良いかと云えば、やはりそうではない。彼は自分同様他人の人生も無価値であると考え、たとえ肉親が死のうとも一切悲しみなどといった感情は想起されないであろうと予想する。彼の両親は健在であるが、事実祖父母の死の際は涙の一滴も流さなかった。彼は死に対しての無感情を自負していた。しかしながら他人が自分の生に対して何らかの価値を見出す可能性が有れば、それを反故にする権利は彼には無い。
つまるところ家族が悲しまない方法で自殺する必要があった。これはもはや時の力を借りた死―”老衰”―ただそれ以外に有り得ない。
彼は答えに辿り着いた。
誰も悲しませてはならないという前提条件を満たすためには真っ当な人生を謳歌する必要があり、またそのためには成さねばならぬ事が無数にあった。
かくして彼は人生を懸けた自殺への第一歩を踏み出した。
  1. 2008/09/06(土) 23:59:36|
  2. 一次創作
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