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こんなのが忍☆忍100ミリ達成記念でいいのか記念

忍☆忍二次小説です。
ななこに読ませて気持ち悪いと一蹴されたいという一心で書きました。
妄想の産物過ぎて原作に迎合しません。
例によって忍☆忍72ミリ辺りまで見てないと話が通じません。
今回はタイトル付けてみました。
17500字ぐらいあります。前回の2倍強。

よし、読むんだ!そして後悔するがいいさ!

『プロバティオ・デアボリカ』

積極的事実の存在は一例の提示に拠って証明され得るが、対して消極的事実の存在の証明は全称命題の肯定に他ならず、一般に妥当性を主張するのが困難である。
故に彼女は苦悩していた。

1 闇黒の深奥
名無しのななこは仄暗い押入れの中で輾転した。
押入れは彼女が足を伸ばして眠るに十分な空間であったが、それは極端に小柄な彼女だからこそ出来る芸当であり、閉塞感の漂う窮屈な空間である事もまた確かだった。その上、真夏の日中の外気と自身の体温とが相俟って、閉め切った空間には瞬く間に熱気が充満していく。
ななこは薄っすらと目を開いて、汗ばんだ額の上に手の甲を添えた。
眠れない。
たまの祝日で学校に行く必要も無ければ、変蝶々や悪魔女が現れる気配も無く、そして出掛ける用事も無いので、休める時に休んでおこうと、惰眠を貪っていた次第である。念の為急な敵の出現に備えて外出用の服装には着替えているものの、その気構えを除いた気という気は緩み切っていた。とは言え、特に睡眠不足という訳ですら無く、所在無いからと始めたこの昼寝も、長くは続かない。
ななこはゆるりと上半身を起こすと、引き戸の縁と方立の僅かな隙間から漏れる光に向かって腕を伸ばし、そこに指を挿し入れた。当然押入れとは中に人が入る為の場所では無いので、開けるのに少々梃子摺る。

急激に差し込む真昼の日差しに顔を顰めた。しかし、緩やかにカーテンを揺らしながら流れ込む微風には、先程までの淀んだ熱気に比べれば、幾分か爽やかな感想を抱く事が出来た。
暗闇の中で開いた瞳孔が縮小するには少し時間を要する。
ななこは目を細めながら、膝から下のみを押入れの外に投げ出す形で中段の上に座した。そして乱れているであろう髪型を、指を挿し入れて梳く事で何とは無しに整えた。吸い付くように指先を撫ぜる髪をくすぐったく感じた。
目は慣れても、まだ完全には思考は世界に慣れていない。半分意識が暗闇の中に押し留まった状態のままに部屋を見回すと、そこはまるで現実とは乖離した別世界であるように感じられた。
「ああ、起きたのか」
そう言って、机に向かっていた主人公がこちらを振り返った。ななこは特に反応を返すでもなく、細目のままその様子を凝視した。机の上には雑誌が広げられている。質の悪い分厚い再生紙で数百ページはありそうな本。週刊の漫画雑誌だろうかと思う。
その光景は当然の日常のようで、言語道断の非日常のようにも感じられた。網膜を介して流入する清濁入り混じった情報は、ななこに不快な感覚を与えた。
そもそも何故主人公が目の前にいるのか、そして何故自分がここにいるのか、今現在の状況について遡及して思考する。

ななこは自らの意志を絶対的に信頼しており、決して生半可な出来事の影響によってそれが歪曲される事など有り得ないと確信していた。それは過去に彼女に身に降りかかった凄惨な事件による精神的外傷に依拠し、以って彼女の胸底には深い闇を囲繞した心理の檻が形成されていた。そして暗黒は彼女が縋るべき生存の理由であり、結ばれたいと願った女性――お姉様――との契りでもあった。
ななこはこの世に存在する全ての男という男を否定する。男とは悉皆自らの欲望の為に女の身体を貪る罪深き穢れた存在でしか無い。彼女は自身の美貌を自覚していたし、故にそれに惹かれて寄り付く男は数知れなかったが、その度完膚なきまでに彼らを退けてきた。各々早い遅いの差はあれ、いずれは必ず彼女が自分の物にはならない事を悟り、その許を去っていく。そうして彼女は孤独な道を歩んできた。
しかし、ななこがどんなに罵詈雑言を浴びせて拒絶しようとも、頑強に彼女に対する好意を固持し、剰え彼女の心理の檻までも取り払わんとする男が居た。それが彼女の下僕――主人公――である。彼女は彼ほど諦めの悪い人間を見た例しが無い。
何しろ口で嫌気を顕にしても、主人公はやれツンデレだのやれ二重人格だのと言って、真実ななこが彼を嫌っているという事実を受け止めようともしない。その上、主従関係すら破棄して絶縁を図ろうとも、地の果てまで追いかけて来て、嫌われている事など承知の上だと宣う。
主人公から逃げ続ける事は、あるいは可能かも知れない。しかしそれはお姉様に対する想いからの逃避をも意味しており、そんな中途半端な生き方を選ぶ事など、ななこには出来なかった。ならば言葉でなく行動で以って、どんな事があっても未来永劫男には絶対に靡かないという意志を示し、これを主人公の、延いては自分自身の骨の髄に刻み込む他無い。
そうして辿り着いた結論が今現在の状況であった。

とは言った所でそれ以上に起こすべき能動的行動がある訳でも無い。
「暇ね……」
投げ出した足をぶらつかせながら呟いたその自分の声は、普段より些か低く掠れているように思われたが、発声によって自分が世界の中にいる感覚が呼び起こされ、俄かに脳細胞が働き出すのを感じた。先程まで覚えていた違和感は、慣れによって薄らいでいった。
「そうだなー」
主人公はいつの間にかこちらを向く事を止め、頬杖をついて雑誌に視線を落としたまま御座なりに答えた。その素っ気無い態度に多少の苛立ちを覚えて、漸く自分の役割を思い出す。
「……あんたね、ご主人様が退屈そうにしてるんだから、少しは楽しませる努力をしたらどうなのよ。全く、気が利かない下僕ねぇ」
せめて存在価値の無い男は須く自分の為に働くべきであり、そして利用されるだけ利用された挙句に打ち捨てられるべきと思う。加えて加虐嗜好を満たす為の対象になっていればさほど文句は無い。
ななこが詰ると、主人公は机の脚を蹴って椅子を百八十度回転させた。
「別に何もしなくて良いんじゃねーかな。恋人同士、こうして一緒にいられるだけで十分幸せだろ?」
ななこは主人公の軽口については最早突っ込む気力すら沸かぬようになり始めていた。いくら恋人では無いと訂正しようとも、暖簾に腕押し、糠に釘、変態の耳に苦言だ。顎の筋肉を動かす労力すら惜しい。ななこは地表に這い蹲る虫螻を見るのと全く同じ視線を主人公に送った。
「どうしたら早くこんな不毛な生活を終わらせられるのかしらね……」
「それなら簡単だぜ。お前が俺の想いを受け止めれば良いんだよ。そうしたら正式に結婚生活に――」
「ないわ」
得意満面で続けようとする主人公を一刀の下に斬り捨てて、嘆息した。

しかし、主人公の言い分はある意味では正鵠を得ているとも、ななこは思う。仮にお姉様への想いが確固たるものであると確信出来たとして、それが何になるというのか。渾身の悪口雑言を物ともせずにのらりくらり、全て脳内で自分の都合の良いように変態語に翻訳してしまうような究極の変態に、どうして厭悪の情を伝えられようか。
ななこは自分の許に寄って来る男を敢えて遠ざける事に関しても絶大なる自信を有していたが、その自信も主人公の信じ難いほどの前向き思考の前には揺るぎ始めていた。
このまま無為に同棲生活を続けても主人公の心を変える事は不可能なのかも知れない。自分の気持ちがどうあろうと、目の前の気色の悪い男に一生涯付き纏われるような未来に吐き気を催した。軽い気持ちで主人公を下僕として認めてしまった過去の自分自身の愚かしさへの呪詛が肥大化していった。
同棲生活を再開してから約一週間、既にななこの心は折れかかっていた。
暗澹とした展望に打ち拉がれて、頭を垂れる。

沈黙。
揺れる足先を目で追う。窓の外からは微かに鳥の囀りと、遥か遠くではしゃぐ子供達の喧騒が聞こえた。しかしそれらは所詮世界の外の出来事に過ぎず、部屋の静謐には何ら影響を与えなかった。
「あのさ」 雰囲気を察したのか主人公は少々重々しげに口を開いた。「お前は何をしたって自分の気持ちが揺るがない事を証明したいから、こうやって同棲生活してくれてるんだよな?」
ななこは上目で彼の方を見遣る。
「……そうね」
「だったら……真面目な話。一つ俺に妙案がある」
佇まいを改めた主人公に対して、仕方なく顔を上げた。

真面目な話と言うが、主人公が真面目な話をした事など、未だ嘗てあっただろうか。
彼の話は、総じて、下らない。
好きだとか、好きだとか、好きだとか、何の価値も無い戯言ばかり。
それでいて、彼は真面目に自分の気持ちを訴えているらしいのだから、猶更質が悪い。
聞く必要など無い。
だからと言って、拒否すれば引き下がるような人間でも無い事は分かり切っている。

「……言ってみなさいよ」
ななこが促すと、主人公は一度目を閉じて軽く深呼吸した後、視線を精確に彼女の瞳へと定めて、唇を動かした。
「俺達には恋人同士が当然して然るべきことをしていない。だからそれをする必要があると思うんだ」
「どういうことよ」
「そうだな……まずは、キスだな」
「は? キ……ハア? ……何言ってんの? あんた頭おかしいんじゃないの? 」
下らないを通り越して、耳を疑いたくなる程に異常で理解不能な提案だった。
見れば、そう言った主人公の表情も、声色も、態度も、至って真摯であった。しかし、彼がそういう人間である事をななこは知っている。真面目に突拍子も無い事を言い出す理解不能な存在。
「だからさ、お前はどんな事があっても俺には靡かないんだろ? ならキスぐらい何の問題も無ぇじゃねぇか。もし、それでもお前が俺に惹かれなかったのなら、俺はお前の事を諦められる」
「いいわけないじゃない! 何で私があんたと……そんな事しなくちゃならないのよ」
虫唾が走る。
口に出すのも憚られる。
総身の肌という肌が粟立つ。
しかし、

――諦める。
たとえ仮定の上の話だとしても、主人公の口からそのような後ろ向きな言葉が飛び出す事など、ななこの経験上は皆無に等しかった。
ならば、それはこの閉塞した状況を打破する為の一筋の光明かも知れない。
行為に対する意味付けを思考の外に追い遣った上で、ほんの一時我慢して、後は記憶から抹消してしまえばそれで済む。只管に無心で挑めば、魅力的な取引と取れなくもないが――。
もう一度主人公の顔を、見据える。
それにしても、醜い。女の為とあらば奸佞邪智を以って欲望の捌け口にせんと企む、男という生物の性に辟易する。就中主人公の醜悪さたるや他の追随を許さず、そんな男と唇を重ねるなど、あって良い事では無い。
一言で言えば、気持ちが悪い。
打算と心情がななこの胸中で鬩ぎ合っていた。
黙りこくるななこを見て、主人公は何を思ったか矢庭にふっと表情を緩めて目を細くする。それは良からぬ思惑を含んだ目だ。ななこは生理的嫌悪を覚える。
「そうか……お前、した事ないんだな。」
何を――。

ななこはお姉様を愛していた。
恋慕、親愛、敬愛、尊敬、憧憬――ありとあらゆる好意的な感情を彼女に向けていた。
ななこは己の身も心もお姉様に捧げるべくあると信じていたが、その想いは成就される事無く彼女には先立たれてしまっている。
美しく、賢しく、凛々しいお姉様は、ななこにとっての完全無欠なる理想そのものであり、それ故に、彼女の存在は遠かった。
どれだけ近くに居ても、どれだけ恋焦がれても、お姉様にとってななこは守るべき幼弱な稚児に他ならず、その庇護の許を脱する事が出来なかったのだ。
ななこは自らの弱さを呪った。
それ以来ななこは、斯くありたいと願ったお姉様の虚像を求めて、あらゆる男から肌を触れられる事すら拒み、頑なに純潔を護持し続けた。
ななこは女しか愛する事が出来ない。時には男嫌いの女性と意気投合し、相思相愛と呼べる関係に発展する事もあった。しかし、ななこが本気である事を悟った途端に彼女らの態度は豹変し、友人ですらなくなった。ななこが思う以上に性別の壁は厚かったのだった。

何を余裕ぶっている――。
「な……馬鹿言ってんじゃないわ! あんたみたいな嫌われ者の変態と一緒にしないで」
ななこがそう謗っても、主人公はその人を無礼た態度を改めなかった。相変わらず、ニヤニヤとした表情を浮かべている。
「まあ、ファーストキスを大事にしたいって気持ちは分からないでもないけどさ」
まさか、自分が主人公に恋愛経験で劣っているなどという事がある筈は無い。あって良い筈は無い。それは主人としての沽券にすら関わり、ともすれば上下関係の維持に影響を及ぼしかねないとさえ思う。
「あんた人の話を……」
一瞬反論が喉まで出かかったが、既の所で思い止まった。
主人公の顔を見ているだけで、無性に腹が立つ。身体の中心から末端へと流れ巡る血潮に灼熱を感じる。臓物が煮えくり返るとはこのような状態を言うのだと思う。
しかし、これ以上声を荒げたところで、今の主人公に対しては逆効果にしかならない。思う壺だ。そうなれば余計に許し難い事態に陥るのは目に見えている。
冷静になれ、と自分に言い聞かせる。感情的になってはならない。飽く迄も理性的であるべきだ。自分より下方に位置する人間に対する感情など持ち合わせてはならない。
自分の立場が分かっていない下僕には、その事を教えてやらねばなるまい。
凍結した心で以って、主人公に憐憫の眼差しを送る。
大丈夫だ。きっと、意味なんて無い。身体ではなく、心を許してしまう事こそが、あのひとに対する背徳なのだ。
だから、大丈夫だ。
「いいわ、好きにしなさい」
「え……? ま、マジで……? マジで!?」
「なんであんたが驚いてんのよ」


2 唇
「ただし! ……それでも私があんたに靡かなかったら――当然そうなるわけだけど――その時は、今後一切私に求愛しない事、私の言う事に”はい”か”イエス”で答えるだけの理想的な下僕になる事、私がいらないと言ったら即座に私の目の前から消えて二度と現れない事、いいわね?」
「……ああ、約束する」
「じゃあ、さっさと済ませましょう」
ななこはそれについては努めて意識しないようにしながら、押入れの中段から飛び降りた。ただこれより以降は忠実な下僕を手に入れる事が出来るという事だけを考えた。主人公の愚かしさを思い、そしてほくそ笑む。
「ちょっと待った」
主人公はななこの接近を片手の平を掲げてぴしゃりと撥ね付けた。思わず静止する。
「な、何よ」
「やるなら徹底的に、だ」
嫌な予感がした。主導権だけは渡してはならない。それが主従関係を保つ上での絶対的な前提条件だ。
しかし主人公は有無を言わさず椅子から立ち上がり、部屋のカーテンを閉め始めた。採光窓を遮られた部屋は、完全にまでとは言えないが、昼下がりの午後の輝きを多分に失う。更に机上に付属している電気スタンドに明かりを灯すと、横のつまみで光量を絞った。
「まずはムードから作っていかないと」
「タスクライトのどこがムーディーなのよ」
「まあ……その辺は気にすんな」
主人公は腕を組んで部屋を見回すと、一人満足げに頷いた。そしてベッドの側面中央辺りに腰掛け、ななこに向かって手招きをした。隣に座れという事らしい。やれやれと思いつつ、仕方なく誘導に従う。

ななこが普段使わない主人公のベッドは思ったよりもずっとふわふわとしていた。重心をどこに置くべきか迷う。物理的に寄る辺を失くす事によって、心理的な安定も乱されるように感じられた。
主人公はライトを背にしてこちらを向いている。ななこは彼の身長に合わせて軽く上方に視線を移した。光は瞳孔を刺激するのに、彼の顔は照らさないから少し表情は窺い辛い。眉を顰めて目を凝らすと、やはりその表情は真剣そのもののようだった。
そうしてる内、急に主人公はななこに向かって、肩が触れ合う程の近くまで、身体を摺り寄せて来た。驚いて身を引く。
「ちょっと、近寄らないでよ変態」
ななことしては極自然に振舞ったつもりだったが、主人公はそれに対して心底意外だと言うような、酷く訝しげな表情を見せた。そんな反応は返された事が無かったので、それ以上は口を噤む他無かった。良く良く考えてみれば、この程度は近付かない限り、これから行おうとしている行為は実現不可能である。密着など大事の前の小事に過ぎない。
気付いて、顔の火照りを感じた。そこから意識を逸らす為に正面を向いて俯いた。時間さえあればそれは収まるから、もう少し待って欲しいと思う。
しかしななこの心中とは裏腹に、突然耳に吐息が掛かる。
「ななこ……好きだ」
主人公がななこの耳元ぎりぎりで、囁いた。低く、甘美で、煽情的な響きが、鼓膜を揺らす。
瞬間、心臓が跳ね上がり、それに伴って身体も宙に浮かんだ。それが日常掃いて捨てる程に行われて、脊髄反射で否定している、気持ちの悪い行為である事を認識するのに時間が掛かった。
「私は、大っ嫌い」
名状し難い感情を打ち消すように言葉を紡ぐ。
意味なんて無い。何の意味も無い。

自分に言い聞かしながら、横目で主人公を見遣ると、彼は先程までとは打って変わって苦笑いを浮かべていた。
「いや、そこは乗ってくれないと雰囲気作りの意味ねえんだけど」
空気が弛緩するのを感じて、ななこは安堵した。主人公にはシリアスな雰囲気など似合わないと思う。変態らしく気味の悪い笑みを湛えているか、下僕らしく自分の命令に右往左往していればそれで良い。
ななこは生まれた心の余裕によって、取るべき態度を思い出した。
「下らないわね。そうやって体裁ばっかりに拘ってるから、あんたはダメなのよ」
「形から入るってのも大事なんだよ。嘘でもいいからさ、頼む」
「別にあんたがそれで満足ってんなら、いくらでも言ってやるわよ」 ななこは努めて平坦に、機械のように台詞を読み上げる。「これから申し上げる事はこれっぽっちも真実性を含まない真っ赤な嘘に違いありませんが、わたしもよ」
主人公はまたそれに苦笑した。
「まあそれでいいや。もう一回やり直しな」
言い終えて、一度深呼吸すると、主人公は表情を引き締める。

普段の変態染みた言動が全くそれを感じさせないだけで、先入観を完全に排すれば、主人公は案外に端正な顔立ちをしていると思う。ななこから見れば、年下のまだ青臭さの残る子供に過ぎない筈だが、精悍な身体付きは非常に男性的な印象を与えている。黙ってさえいれば、自然女が寄り付いて来てもさほど不思議では無い。
しかし、だから何だと言うのだろう。この期に及んで主人公の容姿に客観的な評価を下す必要など全く無い。
血迷っている、と思う。
無意味極まりない考えを振り払う。
主人公は変態だ。それだけで十分だ。
そして、こんな事には何の意味も無い。大仰な事だが、それ自体はどうせものの数秒の話だ。
そう、唇を合わせるだけ。唇を。
意識して見た事など有る筈も無い主人公の唇は、別段何の変哲も無い唇であって、やはり意味など無い単なる唇に過ぎない。
その唇が動く。
「ななこ……愛してる」
さっきと少し違うような気がしたが、既に予行練習をしたから返すべき反応は把握している。ただ何も考えずに演じてやれば良いだけの事だ。それに意味など無いと信じて。
「私もよ……」
ななこは主人公と同様の調子でその台詞を囁いていた。何故かは分からない。自分とは全く違う”もう一人の自分”がその声を発しているかのような錯覚に囚われた。

ななこは一種の恐怖感を覚え始めた。
例えるなら、乗り込んだジェットコースターが動き出してから、安全装置が存在しない事に気付いたような状況。今更生命の危機を訴えたところでもう誰にも気付いては貰えないし、ただ周囲に獅噛み付いて運転が終わるまで落下に耐えるしかない。
しかし今は獅噛み付ける対象すらも存在しないのだ。ベッドはふわふわとしてななこの身体を支えようとしないし、周囲には何も無い。あるとすれば目の前の主人公の胸ぐらいしか無い。そこに倒れ込み、自分の全てを預ける事が出来たなら、どんなに楽になれるだろうかと思う。しかし、それだけは絶対にしてはならないという事も、分かっている。
故に苦しかった。胸が締め付けられるように痛み、心臓は早鐘を打っている。脈打つ鼓動は体温を上昇させ、身体を確実に上下に揺らしている。それを主人公に悟られてはいけないと感じて、心臓を鷲掴みにした。しかし、掴めるのは着ているワンピースの布だけで、鼓動を抑える事など不可能だった。

また、主人公の唇が動く。
「目、瞑れよ」
「……う、うん」
最早何を言っているのか、声になっているかどうかも分からなくなりながら、指示に従った。
光が絶たれれば、目の前の主人公の顔も消えるだろうと思っていたが、実際には瞼の裏にも彼の顔ばかりが浮かんでいて、外の世界と何ら変わる事が無かった。むしろ、今まで暗がりの中で薄ぼんやりとしていた表情よりも、記憶から呼び起こされる表情の方が、ずっと鮮明に目の前に映し出されていた。忍者学校の橋の上まで自分を追い掛けて来た主人公、自分に襲い掛かる火の鳥の前に立ち開る主人公、そして口付けを迫ろうとしている主人公。
それらはどう足掻いても消し去る事など出来ない。耐えるしか無い。意味なんて無い。
急に顎に何かが触れるのを感じて、びくっと肩を竦めた。主人公の指だった。されるがままに顔を上方に持ち上げられ、少し斜めに傾けさせられた。親鳥に餌を求める雛鳥のように、嘴を突き出す形になる。
全身の筋肉が硬直している。触れれば崩壊するような不安定な心理のまま、ただ時が過ぎるのを待った。
眼前に主人公の気配を感じる。胸を握り締める手の指先が震え出し、それを抑えるために更に力を篭める。血液が沸騰しているような錯覚に陥る。
微かに主人公の吐息が頬を掠める。それを気持ち悪いと思う心の余裕など全く無かった。

唇が、触れ合う。
少しかさついていて、思っていたよりも、かたい。
瞬間、ななこの心は落ち着きを取り戻し始めた。
――ほら、意味なんて無い。意味なんて無かった。ただそこには蛋白質と蛋白質が隣接しているという、物理的な事実があるだけだ。それ以上の意味など無い。だから何だと言うのだ。良かった。本当に良かった。全ては夢幻だった。こんな事に意味を見出そうとする荒唐無稽にして暗愚魯鈍の主人公には呆れ返るばかりだ。そんな愚かな下僕をこれから如何にして扱き使ってやろうかと未来に思いを馳せる。忠実なる下僕。下僕としての才能だけを持った下僕。求愛しない下僕。何時でも捨てられる下僕。こんな理解を超えた要求など決してしない下僕。それはそれで張り合いが無いだろうか。いや、それで良い。それ以上に望む事など何も無い。元々下僕は自分が楽をする為だけに下僕にしたのだ。それなのに勝手に好きだ好きだと付き纏って、もう下僕じゃないと言ったのに勝手に付いて来て、死に掛けている自分を勝手に助けに来て、せっかく絶望の最中にあったところに勝手に希望を突きつけて来て、鬱陶しい事この上無い。そんなものいらない。せいせいする。本当に。本当に。

体感時間で数十分程静止した後、もう充分だろうと思って唇を離そうとした。
ところが丁度その時、歯と歯の隙間を縫って、何かが口内に侵入して来た。全く状況が理解出来ず、弛緩し始めていた筋肉が再び完全に硬直し、動けなくなった。
「……ん……ふっ」
ざらざらした物体が、ななこの舌に纏わり付くように暴れ回っている。それから逃れるように舌を動かしても、それは類稀なる執拗さで逃れる方向に追跡して来て、更に縺れ合う。なんとか逃れる事が出来たかと思うと、今度は歯茎や口蓋を舐り始める。やめろとばかりに舌でそれを阻もうとすれば、再びその舌を絡め取られる。際限無く繰り返されるねちこい強攻。
苦しい。息が出来ない。
舌を嘗め回しているのも同様に舌である事を理解するのに随分時間が掛かった。しかし何故そんな事になっているのかは分からない。
かぶりを振る事で舌から逃れようとすれば、今度は後ろから頭を固定される。後頭部の頭皮に触れそうになるぐらいに深く、髪の毛の中へと指を挿し込んでくる。
肉の交わる淫猥な水音が、耳孔ではなく頭蓋から伝わる。密着によって全身が上気し、齎された熱によって思考が蕩けていく。抵抗する気力すらも失われる。舌が口腔の陵辱に飽きてくれる事を切に願う。
しかしその願いは叶う事無く、むしろ攻めは苛烈を極めていった。
このままでは埒が明かないと思い、意を決して、恐る恐るながら瞼を開いていくと、当然ながらそこには今まで経験した事も無い程に肉薄した主人公の顔があった。彼は完全には目を閉じておらず、しかしその視線は正面を捉えてもいなかった。大半を瞼に覆われた眼球は下方を示している。それに従ってななこも視線を動かすと、そこには徐にななこの首元へと向かう彼の手があった。
そして手はワンピースの襟のボタンへと到達し、そこに指を絡ませ始める。それを片手だけで行うのに不慣れなのか、動作はぎこちなかったが、何をしようとしているのかは分かった。
絶対に、何かがおかしい。
そこで漸く人間が鼻でも呼吸出来る事を思い出す。酸素を得た脳は緩慢ながらも思考能力を取り戻し始める。
ワンピースは襟から裾まで全てボタンで留めるタイプだった。放置すれば誰の目にも触れた事の無い肌が白日の下に晒されるのは、火を見るより明らかだった。
拒絶しなければ。
気力を振り絞って、守り続けた秘密を暴こうとしている破廉恥極まりない腕を掴んだ。
「んんん……」
しかし動きは止まない。
降参の意図を伝える為に、何度と無く腕を叩く。
「んんっ……!」
しかしそれでも動きは止まない。
尚も口内では主人公の舌が蠢いている。時には口角から溢れ出しそうになった唾液を啜られる。こんなにも必死に懇願しているのに、それを受け止めようとしない主人公に恐怖を覚えた。
一番上のボタンが外れ、布と肌の隙間に空気が這い入るのを感じた。それと同時に主人公の舌の動きは止んだ。舌はななこの口からするりと引き抜かれた。
「ぷはっ」
銀色の糸が宙に浮かび、微かに光を反射して煌いた。そしてそれは直ぐに落下して、ななこと主人公の服に一筋の染みを作る。ななこは暫しその様子を茫漠とした心で眺めて、唐突に訪れた平穏に安堵した。次にその平穏の意味を思案したが、それが束の間で仮初めのものである事に気付くのにそう時間は掛からなかった。
主人公は呼吸に合わせて上下するななこの両肩を掴んで、後方へと押し遣って来た。
ななこは無意識的に後ろ手を付いてそれに抗ったが、ななこの細腕が持つ力に比して、肉弾戦を得意とする主人公の奇跡的な力はあまりに大きく、押し倒されるのは時間の問題に思われた。しかし、主人公はそれすら待たず、頭をななこの顎下まで落とすと、首筋に口付けた。
「ひあっ……」
途端に突っ張っていた腕は頽れて、身体は背中からベッドの上へと落ちた。乱れ散った髪の毛と、開けた衣服を正したく思ったが、そんな暇を与える事無く、主人公の唇は今口付けた場所を追い掛けて来た。唇は、時折印を刻み込むように強く、すべらかな柔肌を刺激しながら、少しずつ、少しずつ、ななこの首筋を這い進んで行く。
どうにかしてやめさせようと、主人公の頭を両手で掴んだが、ななこの力ではびくともしなかった。唇は鎖骨まで下り、暫くはそこに留まっていたが、それ以上の進行を衣服が拒むと、主人公はななこの腋の下に手を付き、上体を少し起こした。そして、またボタンへと手を掛け始めた。
もう何が起こっているかは深く考えなくても分かる。
「あんた……自分が何してるか分かってんの……?」
主人公はその声が耳に入っていないのか、ななこの質問もとい詰問に対しては何も答えず、眉根を顰めながら作業に没頭し続けた。
「これは……ゴールデンタイムのアニメなのよ……?」
「違えよ」
二つ目のボタンが外され、また少しななこの肌が外気に触れる。
違う、とは何の事なのか。
そもそもこんな事は有り得ない。有り得ない筈だった。
何故こんな事に――。

ななこは世界が清廉潔白である事を切望している。特に幼い子供への影響に対する憂慮は計り知れず、そのような子供が家族と団欒する時間帯における放送規制に抵触するような行為は自粛している。
そしてななこに好かれる為とあらば如何なる行為も辞さない主人公も、それに首肯していた。
ななこと主人公の間には一種の見えない障壁が存在していると言える。彼の想いの強さ、それ即ちこの障壁の堅牢さであり、彼を認める部分があるが故に、彼女は身の安全を確信していた。だからこそ、彼女は危険人物の筆頭たる主人公と寝床を同じくするという、猛獣跋扈する密林を丸腰で駆け回るが如き状況に身を置く事が出来るのだ。
しかし、現に主人公は飢えた獣と化している。
主人公に主人公らしからぬものを感じる。
――否、始めは気の所為だと思ったが、起床直後からずっと、目に映る全てに対して感じている奇妙な違和が拭い去れていない。世界の存在が曖昧模糊として、それが断片的な情報を頼りにした自らの想像によって初めて確定されるような感覚。
ななこにとって、頭がおかしくなりそうな程に聞かされた主人公の想いの迸りは容易に覆せる事象でなく、むしろ疑うべきは世界の方であるように思われた。
なれば、”違う”のは世界の構成。
仮にこれがゴールデンタイムのアニメでは無いのだとすれば、ここには放送倫理などという、ななこの身の安全を保証するシステムは存在しないし、存在しないものが遵守される必要は無い。この限りにおいて、なるほど主人公の行為は彼の信念に背かないだろう。
そして主人公は世界の在り方など、疾うの昔に承知しているに違いないのだ。それこそが全ての人間に対する命名権を有し、他の人間の出番を掻っ攫う、主人公の”主人公”の名を冠する主人公たる所以である。彼の引き立て役に他ならない周囲の人間は、いつだって彼の横暴のとばっちりを食らっている。世界は彼を中心に据えて廻転するし、彼無くして世界は存在し得ないと言っても過言では無い。
ななこの頭の中で曖昧に渦を巻いて揺蕩っていた予感は、明瞭な形状を有する確信へと変貌していった。
しかし、だから問題無いとでも言うつもりなのか。
そんな事が罷り通って良い筈は無い。

事態さえ把握すれば、案外に対処を冷徹に考慮する事が出来た。そもそも主人公の良識に期待して、思考に干渉しようとする事自体間違いだったのだ。自力でどうにかする他無い。誰も助けてなどくれない。
三つ目のボタンが弾けるのを感じた。時間はあまり残されていない。
身を起こすには主人公の身体が邪魔で、左方に逃げるには壁が邪魔で、右方に逃げるには腋の下に置かれた主人公の左腕が邪魔だ。最も容易に除去出来る障害はどれか。結論に至るが早いか、ボタンを弄くる腕を掴んで固定し、そして右掌で主人公の頬を打ちつけた。体勢は悪いが、確かな手応えを感じた。
主人公は反射的に左頬を押さえた。その隙を逃さずにななこはベッドから転がり落ちた。元々膝から下はベッドの外にあったので、さほど難しい事では無かった。
脚はがくがくと震えて、殆ど力は入らなかったが、ここで倒れては逃れた意味が無いと自分を奮わせて立ち上がった。慌てて開けた胸元を合わせて強く握り込む。
俯きがちに頬を押さえている主人公を睨み付けた。そして、目の前の下卑た男に体を任せようとしていたという事実に慄然とする。
「誰がそこまでして良いって言ったのよ!? ……この、変態! 下衆! 最っ低!!!」
主人公は平静を保ったままななこに向き直った。
「言ったろ、好きにして良いって」
「そんな意味で言ったわけないじゃない!」
全身の毛が逆立つのを感じた。
咎められた事に対して慌てる様子も、反省する様子も、全く感じられない。この男は間違いなく、最初からなし崩し的に行為に及ぼうとしていたのだと思う。
許せない。絶対に、許せない。

だが、そこでまた先程の主人公の厭らしい笑みが浮かぶ。
やはり、これ以上いくら罵倒したところで主人公がそれを真に受けるとも思えず、むしろ必要以上に声高に叫ぶ事によって自分の立場が悪くなるようにしか思えなかった。この程度の事で狼狽えていては当初の目的からすれば本末転倒である。
それでも、不埒千万な下僕に対する仕置きだけは必要だった。それだけは譲れない。
ななこは服を合わせたのと逆の手を思い切り振りかぶった。そこに、先程のような事態から逃れる為の暴力とは全く違う、制裁の意味を込めて、主人公の、先程とは逆の頬に強かに打ちつけた。強烈な破裂音が周囲に響く。
「っ……」
勢い良く九十度程回転した主人公の首がこちらに戻るのを待たず、振り返って部屋を飛び出した。
叩いた手はじんじんと痛んでいた。


3 汚涜
――気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い
ななこは洗面台に向かって主人公に穢されてしまった口内を懸命に濯いでいた。
全開にした蛇口から止処無く流れ出る水流は陶器の表面を打ち、それが激しく音を立てている。
一心不乱に舌を指で掻き毟るようにして、付着した汚らしい主人公の唾液をこそぎ落とす。
舌に痛みが走るのも気にしてはいられない。むしろ表面が殺ぎ落ちれば、自身の流血によって多少は主人公の痕跡を消せるのではないかと思う。
しかし、その行為は意味を成さなかった。いくら唾液を洗い落としても、一ナノリットルすら、原子の一つすら残さず掻き出したとしても、唇が触れ合い、口内を嘗め回された感触、記憶、そして事実を消す事など不可能だった。
何故こんな事を承諾してしまったのだろうか。どうかしていた。譲ってはならない一線だった。
激しい悔恨の念に苛まれる。主人公、そして主人公の陥穽にまんまと乗せられた自分自身が許せなかった。
指が疲労で動かなくなり始めた。虚無感に心が支配されていく。
顔を上げると、その先の鏡には、心許無く、繊弱で、あどけない少女の姿が映し出されていた。
あの日から何一つ変わっていない。
とてもでは無いが独りで生きるなんて事は出来そうには見えなかった。そんなに強くなんてなれない。
「ごめんなさい……お姉様……」
そう呟いた瞬間、視界が歪むのを感じて、ななこは咄嗟に掬った水を顔面に打ち付けた。
顎や、鼻先や、額や、頬からは、ぼたぼたと水滴が滴り落ちていた。


4 悪魔の証明
十数分の後に戻ったその部屋は、先程まで行われていた悍しい行為がまるで嘘だったかのように、起き抜けと同じ状態に還っていた。カーテンの開け放たれた窓から差し込む日差しが眩しい。
主人公もまた部屋の様子と同様に、まるで何事も無かったかのように、ベッドに寝転がって先の漫画雑誌を読んでいた。
ななこは態と扉を勢い良く閉めて、つかつかとベッドの主人公の横に歩み寄った。しかし、主人公はななこの接近を全く意に介する事無く、雑誌を耽読し続けた。本当に何も起こっておらず、全ては夢の中の出来事であったなら、それほど喜ばしい事は無いが、そうで無い事は主人公の頬にくっきりと浮かぶななこの手形が厳然と示している。
ななこはそれを見て、良い気味だと思う事で、心を安らげようとする。
ぽかんと口の開いた、間の抜けた表情。
唇と唇の間から覗く舌。
かたい唇。
重なる唇……
想起された感触に、はっとしてななこは首をぶんぶんと振る。しかし、尚も主人公は平然として、自分だけが心を乱されている。その事実が許せない。
まさか、あれだけの事を仕出かしておいて、あんな屁理屈で人を納得させられたとでも思っているのか。
余りの怒りに拳が震えたが、やはりその感情を流露させてはならない。二の腕を、爪痕が深く残るであろう程に強く、握り締めた。そして、ただ冷静に、伝えるべき事だけを伝える。
「下僕」
「ん?」
主人公は目だけをこちらに向けた。
「この通り、何があっても私はあんたには靡かなかったわ。当然私の命令には従ってもらうからね。あんたみたいなどうしようもない変態でカスでゴミは私の下僕には値しない……。絶交よ。二度と私の目の前に現れないで」
言ってやった。紆余曲折はあったが、これでもう、終わりだ。最低最悪の日々を、感慨深く回想した。
主人公はそれを聞くと、雑誌を置いてななこを見詰め返した。反射的に目を逸らす。
「嫌だ」
「は?」
「お前が素直になるまで、もうちょっと下僕続けさせてもらうよ、俺は」
「あんた自分の言った事忘れたの? それとも約束も守れないような最低の人間なわけ?」
「約束ってなぁ……途中でギブアップして約束破ったのはお前の方だろ。どこにキスするかなんて決めてねえのに」
「あんた……屁理屈も大概にしなさいよ。放っといたらあんた何仕出かすか分かったもんじゃないじゃないの」
いつもの事だが、理解を超えた言い分にまた頭が痛み始めた。
「ていうかそもそも――」 主人公は大儀そうに上半身を起こした。 「お前完全に俺に靡いてるだろ。案外分かり易いのな」
主人公は事実無根の嘘八百を、さも当然であるかのように並べ立てる。それに対する怒りの衝動がまた抑え切れずに暴発する。
「そんなのっ……! 口でなら何とでも言えるじゃない!」
「その言葉そっくりそのままお前に返すぜ」
「冗談じゃないわ! 私は……本当に……」
「これからもよろしくな」
主人公は握手を求める手を差し出してきた。ななこは即座にその手を思い切り弾き飛ばした。
「ふざけるな! 何なのよこの茶番は……。結局何の意味も無いんじゃない! 次はどんな要求をするつもりなのよ。服を脱げ? 触らせろ? 抱かせろ? どうせあんたは体さえ好きに出来ればそれで満足なんでしょう? 人の気持ちなんてこれっぽっちも考えてやしない……。あんたのそれは断じて愛なんかじゃないわ。そんな独善が愛であってたまるもんですか!」
主人公はまじまじとななこの顔を見詰めている。いくら視線を外しても視界の端に主人公の顔が映るので、ななこは仕方なく目を瞑った。
「……本当に初めてだったのか?」
「っ……」
ななこの詰問を意に介さない、どう考えても無関係な話題のぶり返しに、言葉が詰まる。そしてその一瞬の沈黙は回答に等しい事を自覚して、ななこは観念した。
「だったら……何だってのよ……」
「……いや、良かった。俺も初めてだったし」
「はあァ?!」
考えてみれば、当然過ぎる、誰の目にも明らかな事実だった。主人公に唆されて唇を許す女など、この世に存在する筈が無い。いるとすればそれは、理解を超えたとんでもない物好きだ。どんな顔をしているのか、一度お目にかかりたいものだと思う。たとえ女だとしても、そんな女とは絶対に意思の疎通すら図れないだろう。
しかし、馬鹿げている。
だとしたら何の為にあんな思い出したくもないような憂き目に遭ったと言うのか。妙な自尊心に突き動かされて取った行動には、実際のところ何の必要性も存在しなかったのだ。変態なだけで無く陋劣な主人公に対する憤怒は頂点を通り越して、自嘲に変わり始めた。
最早二の句が継げない。それでも、最低限目の前で自分が優位に立っていると思い込んでいる主人公だけでも、どうにかしないと気が収まらなかった。頭がどうにかなりそうだった。
「どきなさいよ……そこは私のベッドよ……!」
「……どう考えても俺のベッドだと思うけど」
「何で下僕であるあんたがそんなふかふかのベッドで寝て、主人である私があんな狭っ苦しいところで寝なくちゃいけないのよ! おかしいじゃない!」
「それはお前が自主的に……」
「うるさい! 下僕の癖に口答えするな!」
主人公は暫く黙った後、ふっと口許を緩めてベッドから立ち退いた。
「へいへい、分かりましたよお姫様」
また軽口を叩く主人公をキッと睨み付けた。しかし顔の筋肉が上手く動かせず、ちゃんと表情が作れているのかは良く分からなかった。

主人公が机に向かって座り、また雑誌を読み始めるのを見送ると、久し振りにほんの僅かな征服感を覚えた。そこで初めて、別に主人公のベッドなど使いたくもない事に気付いたが、態々追い出しておいて使わないのもおかしな話だったので、ベッドに脚を掛けた。
ベッドの中央に身体を沈めると、身体全体が主人公の匂いに包まれるような気がした。本来なら瞬間的に拒絶して然るべきだが、もうそんな事はどうでも良かった。いちいち反応するのも煩わしい。ただ憎しみを込めた視線を主人公に送った。
そして寝転がったところで手持ち無沙汰な事にも気付く。睡眠は過剰なぐらいで眠る気など全く起きない。
主人公は頬杖をついて雑誌のページを捲っている。一人暇を潰すその姿すらも無性に憎らしくて、自由を妨げたくなる。
「下僕、ちょっとその雑誌よこしなさいよ」
「あ? お前漫画なんか読まないだろ」
「いいから、急に読みたくなったの」
「何だよ、人のもんばっか取って……子供かよ」
言いながら主人公は渋々こちらに向かって雑誌を持った手を伸ばす。
下僕は下僕らしくこんな風に大人しく命令に従っていれば充分だと思う。何も余計な事を思考しなければ良いのに、どうして感情など持とうとするのか、分からない。
ななこは横臥したままに主人公に応じて雑誌を掴んだ。ベッドと机は隣接しているので、二人は多少無理をすれば手が触れ合う程度の距離にあった。
「……ありがと」
仏頂面を保つように努力する。
主人公はそれに微苦笑した。
「なあ、こんな風に一つ屋根の下で暮らしながら、お互いに初めてを捧げ合った男女の事を、世間一般ではなんて言うんだ?」
曲解を招きかねない言い回しを含む、余りにも意図の見え透いた質問に、礼を言った事すら後悔した。
「何をしようと所詮は他人よ」
主人公はちぇ、と軽く舌を打つと、本棚から別の単行本を取りに立った後、机に戻った。

主人公の読んでいた雑誌。主人公が読んでいたような気がする辺りのページを開いてみた。念の為、主人公の顔の辺りが隠れるように、彼に向かって雑誌を掲げた。
そこにはオレンジ色の髪の少年が異形の化け物と戦う様が描かれていた。連載なのでストーリーはさっぱり分からない。しかし、ただ単に戦っているだけで、それ以上の意味は見出せそうに無いのは確かだった。こんなものの何が面白いのか。主人公のような世代の少年の心を揺さぶる何かがあるのか。少しは主人公の心が理解出来るのかも知れないと思ったが、土台無理な話のようだった。やはり男の考える事など理解出来ようも無い。
所詮、他人の心など分からないのだ。
ならばどうやって自分の気持ちを伝えれば良いのだろう。
~な程好きだとか、~な程嫌いだとか、畢竟するにそんなものは無限に存在する可能性の一例に過ぎず、命題の証明にとって満足とは言えない。将来的に変化する可能性に至っては、人類が三次元生物である限りは知るべくも無い。
どうすれば良いのか、全く分からない。
分からないが、別に焦る必要も無いように思われた。ゆっくりでも良い。その内きっと分からせてやる。主人公とヒロインが結ばれるべきという物語のセオリーだけは、他の何に代えても脱却せねばならない。
一生掛かってでも、必ず遣り遂げてみせると、決意する。

段々と、腕に疲労感が蓄積し始めた。宙空に掲げた姿勢を維持するのに、些か雑誌は重いのだ。
腕が下がり、主人公の横顔が浮かび始める。しかし、主人公の眼だけは視界に入らないように筋肉を強張らせ続ける。そうしてさえいれば互いの視線は交錯しない。
ななこの認識する画面では、雑誌の淵が主人公の死神色の髪の毛を切り取っていた。
紙面上の存在である雑誌の中の少年と、主人公を見比べてみた。どちらも闘争の中に身を置いているという点は共通している。だが少年の眼は純粋無垢に見えて、きっと主人公のように全世界の女を手に入れる為、などという邪な野望で以って戦ったりは決してしていないと思う。こんな風に人の苦悩の元凶になっていたりも、きっとしていないと思う。
主人公は、この上なく非合理的で、救い難い変態で、どうしようもない馬鹿で、そして今までに見たどんな男よりも、諦めが悪い。

その懸隔がなんだか可笑しくて、ななこは主人公に悟られないように、クスリと笑った。
  1. 2009/10/02(金) 06:25:24|
  2. 忍次創作
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  4. | コメント:2
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コメント

な、ななこと主人公が、き、き・・・!!!
なんという・・・なんという・・・!!

私のいつもと変わらないような100ミリと引き換えに読めてしまって本当に良かったのかと思ってしまうほど素晴らしい話でした。
ごちそうさまでした。
  1. 2009/10/02(金) 10:23:11 |
  2. URL |
  3. にこ #7I7uLWho
  4. [ 編集]

>にこさん

はずかしい! はずかしい!

そしてある意味これよりもっとひどいのが後ろに控えてるのは恐るべき事です。
あと推敲と晒す勇気が出来たらXXXミリ記念と適当にこじつけて出すのかもしれません。段々感覚が麻痺してきた……。
  1. 2009/10/02(金) 18:57:23 |
  2. URL |
  3. 仮称 #-
  4. [ 編集]

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